胡宮神社文書398点(町指定有形文化財 書跡)

胡宮神社文書

所 在■多賀町敏満寺
所有者■胡宮神社
時 代■鎌倉から明治時代

由来または沿革

 胡宮神社文書は、敏満寺が戦国時代に兵火に罹って廃絶したあと、その坊のひとつである福寿院、つまり胡宮神社の別当に、伝承していたものです。多賀大社と胡宮神社の位置づけをめぐる訴訟に関する文書がまとまって保管されています。ここには近世の胡宮神社別当福寿院が、敏満寺以来の由緒を守るため、懸命に多賀大社に抗い続けたようすが記されています。
 胡宮神社文書として今回確認できたのは、398点で、保管場所および内容によって16分類されており、内容を列記する次のようになります。
 『多賀大社叢書』などで紹介された中世文書および近世文書、由緒・旧記類、土地に関する文書、作事・普請関係の文書・記録、道具や仏像など什物の引き渡し、移動に関する文書、神事・仏事関係の文書、講・配札に関する文書、勧進関係の文書、胡宮神社本地仏、あるいは石造聖観音像の開帳および京都霊山や仁和寺、近江櫟野寺などにおける出開帳関係の文書、訴訟関係の文書、住職の退院、入院に関するもの、住職の日記、多賀大社とのさまざまなやりとりなどに関する文書、年始や贈答にかかる礼状等の書状類、朝廷・幕府・彦根藩に関する文書、本山・滋賀院に関する書状等、明治政府・滋賀県関係の文書、胡宮神社の牛玉宝印や「多賀胡宮大明神寿命福徳祈所」の御札などが含まれています。

指定の事由

 敏満寺に関係する古代中世の資料としてだけでなく、敏満寺が衰退してからの、近世の胡宮神社と多賀大社との関係などについてうかがえる貴重な古文書群と考えられます。


 

紙本淡彩 妙寿尼(村山たか女)像 一幅
(町指定文化財 歴史資料)

所 在■多賀町楢崎 所有者■高源寺
時 代■明治時代

由来または沿革

 妙寿尼(俗名 村山たか)の肖像画で、剃髪・老貌に描かれており、最晩年の肖像画と思われます。
村山たか女の出生の詳細は不明ですが、一説には多賀大社不動院の尊賀上人を父、般若院の社僧慈算の妹藤山くにを母として、文化7年(1810年)に生まれたという伝承もあります。
 彦根藩主井伊直弼および藩士長野主膳に仕え、幕末の混乱期に、藩政の一端で活躍したと伝えられています。安政7年(1860年)、井伊直弼が桜田門外の変にたおれた直後に、土佐・長州藩士らに捕らえられ、三条大橋のたもとで3日間の生き晒しの刑に処されました。しかし、百々御所(宝鏡寺)の尼僧の手で助けられ、京都一乗寺の尼寺円光寺で剃髪し、妙寿尼と名乗り、近隣の金福寺で晩年を送りました。
 なお、本画像を伝えている高源寺は、明治9年焼失し、同14年に多賀大社般若院を移築したものと伝えられ、本作品の伝来の一端がうかがい知れます。

指定の事由

 一般女性の肖像画は珍しく、明治期の作品とはいえ、幕末の混乱期に活躍した「村山たか女」を描いた作品として歴史的に貴重なものです。


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