名 称
敏満寺遺跡(びんまんじいせき)
石仏谷墓跡(いしぼとけたにはかあと)
所在地
多賀町大字敏満寺
時 代
平安〜戦国時代
主要遺構
寺院跡(平安〜戦国時代),城跡(戦国時代),集落跡(室町〜戦国時代),墓跡(鎌倉〜戦国時代)


上左:石仏谷墓跡現状風景   上右:石仏谷墓跡出土遺物集合写真
中左:A区1号墓 中右:F区蔵骨器、蓋(別個体の破片)、火葬骨
下左:G区区画墓     下中:金銅製錫杖頭   下右:G区3号墓

概 要
 敏満寺遺跡は、青龍山(標高333m)および青龍山から北西にのびる舌状の台地上に広がる遺跡で、「敏満寺」が隆盛を誇った地である。敏満寺の草創については諸説あり、定かではないが、伊吹山系の天台山岳寺院として、遅くとも9世紀には成立されたと考えられている(1)
 鎌倉時代には隆盛を極め、経済的に豊かであったらしく、敏満寺は東大寺造営に際して多額の寄付を納めたことにより、俊乗坊重源から東寺の舎利1粒を納めた金銅五輪塔(重要文化財)1基を寄進されている。
 また、朝廷の帰依も得て堂舎が整備され、南北朝、室町時代にはいってからは幕府の保護を受けていたが、しだいに近江守護佐々木氏との対立が激化し、たびたび兵火に遭っている。このころには比叡山延暦寺の末寺となって守護大名に対抗していた。
 戦国時代には、京極氏に背いて六角氏と通じた久徳実時を攻めた浅井長政は、これに味方した敏満寺を攻め、坊舎はことごとく灰燼と帰した。再建途中にあった敏満寺は、織田信長に焼き払われ、寺領を取り上げられると、衰退の一途をたどり、ついに再建されることはなかった。
 敏満寺の概略は以上のようであるが、文献資料が少なく謎が多い敏満寺は発掘調査によってその様相が明らかになりつつある。昭和61年(1986)の発掘調査(2)では、台地上の西端に虎口を有する土塁、堀に囲まれた防御施設が発見され、浅井あるいは信長に対抗するために築かれたと考えられている。平成6〜12年(1994〜2000)の発掘調査(3)では台地上の北東側に溝で区画された建物群や埋甕施設が発見され、敏満寺を中心として都市的な空間が広がっていたと考えられるようになった。
 石仏谷墓跡は、敏満寺の堂舎が存在していたと推定される青龍山西側山麓に広がる削平段の南東端に位置する中世の墓跡で、標高180m付近、南北60m、東西48mに広がる。墓地は北側の巨石を境に南側に形成されており、結界石の可能性も考えられる。内容確認のための発掘調査(4)によって、数種類の墓の構造が確認されており、出土した蔵骨器や供献土器から墓は13世紀から16世紀にわたって使用されていたと考えられる。墓は廃絶当時の姿を良好に留め、墓道や小堂宇の痕跡が残っており、中世墓地の空間構造を知る上で貴重な資料である。

(1)細川涼一「古代・中世の敏満寺と石仏谷中世墓地」(文献5)
(2)文献2
(3)文献4
(4)文献5

文 献
1.『滋賀県史跡調査報告』第12冊1961 滋賀県教育委員会
2.『敏満寺遺跡発掘調査報告書』1988 滋賀県教育委員会・(財)滋賀県文化財保護協会
3.『敏満寺の謎をとく』2003 多賀町教育委員会編
4.『敏満寺遺跡』2004 滋賀県教育委員会・(財)滋賀県文化財保護協会
5.『敏満寺遺跡石仏谷墓跡』2005 多賀町教育委員会
6.『敏満寺は中世都市か?-戦国近江における寺と墓-』2006 多賀町教育委員会
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